「子供の頃の話し」カテゴリーアーカイブ

西洋医学嫌いの母が私に施した民間療法の数々と漢方薬。

昨日、風邪から「蓄膿症」の症状が出てしまった私。

夜に小林製薬の「チクナイン」を飲んで早目に寝たところ、

今朝は頭の重さが取れていたので随分楽になって

「チクナイン」サマサマです(*´ω`*)

この「チクナイン」は成分が生薬の漢方薬で、

副作用の心配が少ないのがありがたいですね。

 

しかし、副作用が少ないのは確かにありがたいのですが、

私の母がとにかく西洋医学より

漢方薬と民間療法が大好きな人で、

何かにつけて自前で施したがるので

子供の頃は嫌な思いも随分したものです(ー ー;)

 

私は幼少の頃、重度の「蓄膿症」で

小学校に入ってからは耳鼻科に通う様になったのですが、

幼稚園の頃は母の方針で漢方薬で治療していました。

これが、お湯で薬草を煮出して飲むタイプだったのですが、

もうまずいのなんのって…(´ཀ`

苦くて臭くて、飲み込もうにも

体が拒否して吐きそうになってばかり。

自然に涙が流れ出るまずさでした(T-T)

幼稚園に行く前に毎朝必ずカップに一杯飲まされるのが苦痛で苦痛で

おかげで幼稚園に行くのも遅れがちになり、

母からは毎朝怒鳴られながらの登園でした…。

しかも効果は全く無し。

1年間くらいは嫌々飲まされていたでしょうか。

それがある日、その漢方薬屋さんに行った際、

漢方医の先生が

「もう6歳になるならカプセル飲めるかな?」と

同じ成分が入っているという漢方薬のカプセルを出して来たのです!

「そんなのあったの?

最初っからカプセル飲めたよ!

何で早くカプセルにしてくれなかったの?!」

毎日母に怒鳴られて飲まされていた

煮出しタイプの漢方薬の苦痛の日々を思うと、

幼いながらに怒り爆発でしたo(`ω´ )o

先生は「ハハハ、だってまだカプセル飲めないと思ってたからね。

確かにあれは美味しくなくて飲みづらかったと思うよ。」と…

笑いごとじゃないっつーの!

その後、カプセルになって

どれだけ快適になったでしょう。

しかし、肝心の効果は全く無いまま…。

 

そこで母は漢方薬と平行して、庭から取ってきたドクダミの葉をすりつぶし

私の鼻に詰めることにしました。

これを詰めたまま幼稚園に行かされる辛さ…

あり得ないですよね…(~_~;)

しかも効果は全く無し。

流れ出る鼻水の勢いの方が強いため、

長時間ドクダミの葉を詰めておくことは不可能で

数回で辞めてくれたと思いますが、

今でもドクダミにはトラウマがあります…(c” ತ,_ತ)

 

次に母は私のおでこにお灸をすることにしました。

生姜のスライスの上に「もぐさ」を乗せた方が

より効果があると聞いたらしく、

生姜のスライスをおでこに乗せて

その上からお灸をされていました。

しかし、依然として効果が無いことに業を煮やした母は

「もぐさ」の量をどんどん増やしてお灸の時間を長くし、

ついに私のおでこにヤケドを負わせてしまうことに…∑(゚Д゚)

ここまでやっても効果が無いので

やっと諦めて辞めてくれてホッとしたのを覚えています。

 

結局、小学校に上がった後は耳鼻科に通い、

将来は手術しかないと言われながらも

3年生の時に盲腸の手術で処方された化膿止めの薬が効き、

以降「蓄膿症」はすっかり治ってしまいました。

↓その時の詳しい経緯はこちらからお読み下さい。

「生まれつきの重度の蓄膿症が化膿止め薬であっさり治った話し」

 

「蓄膿症」の治療以外でも民間療法ばかり取り入れる母は

私が幼稚園の頃、ノドが痛いと言えば

長ネギを焼いたものを白いガーゼにくるんでノドに巻き、

そのまま幼稚園に行かされました(*_*)

時間と共に、焼いた長ネギの茶色い汁が白いガーゼに染み出し、

友達に「汚い」とさんざんからかわれたことを母に伝えると、

次の日は、母の花柄のハンカチにくるまれた長ネギが…

いや…そういうことじゃなくて…(ToT)

友達のトローチにどれだけ憧れたことでしょう…。

母にトローチの件を伝えると、

さっそく大根のスライスを水飴に漬けたものを作り

「これを飲めばトローチより効く」と言われ

非常にガッカリしたものです…。

 

また、筋肉痛などの痛みには

小麦粉に酢を混ぜて練ったものを

ガーゼに貼りつけて患部に当てる。

もう、シップがある時代に何でこんなこと…

貼っててもずり下がってくるし

剥がした後がカチカチのベタベタで本当に不快でした。

効果だって、あるんだか無いんだか…

そんなことより嫌でたまらなかったです。

 

また、温めた方がいいという場合には

コンニャクを茹でたものをガーゼにくるんで巻きつける…。

カイロのある時代に何で…。

しかもコンニャクすぐ冷たくなります…。

 

熱が出たらキャベツの葉を頭に乗せる。

アイスノンや水枕もあったのに…。

こんなの、近くに病院が無い人が

仕方なくやることなんじゃないの?!

ウチの近くは徒歩圏内にも病院たくさんありましたからーーー!!

 

私の父は逆に、すぐ病院派だったのですが、

母は頑なに西洋医学を否定していて、

今でもよっぽどじゃないと病院には行きません。

「副作用が心配だ」とか、

「所詮西洋医学には限界がある」とか、

気持ちは分かりますが、

度々、怪しい健康食品や健康器具を

高額で購入するのを見ていると

素直に病院に行けばいいのにと思わずにいられません…。

 

今回は「チクナイン」がよく効いてくれたので

病院に行かずに済んでありがたかったのですが

あんまり良くならない場合には

すぐ病院に行く方が賢明ですね(´・_・`)

 

 

私が知っている、オリンピックを目指していたけど挫折してしまった人達の話し。

平昌オリンピックの男子フィギュアスケートで

羽生結弦選手が金メダル、

宇野昌磨選手が銀メダルを獲得しましたね!

両者とも、ここまで来る道のりは

どれほど長く苦しかったことでしょう…。

オリンピックを目指して長い期間練習に励んでも、

途中で挫折してしまう人の方が圧倒的に多いと思います。

私が小中学生だった頃にも、そんな子達がいました…。

 

私が小学生だった時、一つ下の学年で

スキージャンプをやっている男の子がいました。

その子は、北海道の真冬、気温−10℃などの日でも

毎日ランニングシャツに短パン姿で登校していて、

学校でも超有名人でした。

いつも真っ黒に日焼けした顔にスポーツ刈り。

“ザ・男”といった感じで、

毎日スキージャンプの練習に励んでいた様です。

中学に進学した際には、さすがに制服姿で登校しておりましたが

初めて彼の制服姿を見た時には

「長袖、長ズボン着るんだ…。」と驚いたくらいです(^^;)

中学時代も各種スキージャンプの大会に参加していた様ですが、

成績は今ひとつとの話で、全国大会にまでこぎつけられず、

結局、高校入学とともに辞めてしまったと聞きました。

彼のお母さんと私の母は時々会えば話す仲で、

色々聞いたところによると…

小学校時代のランニングシャツと短パン登校は

お父さんが体を鍛えさせるためと強制していたもので、

本人は非常に嫌がっていたそうです。

そして、高校もスポーツに力を入れている私立高校への進学を

お父さんは強力に勧めたそうですが、

本人が絶対に嫌だと拒否して

結局スキージャンプ自体辞めることになってしまったとのこと。

将来はオリンピック選手にしたいと

彼が幼い頃から一生懸命にサポートしていたお父さんは

非常に非常にガッカリしたそうですが、

年齢的にも、もう強制することが出来なくなったと…。

いやいや…

これを聞いて本当に彼がかわいそうになりました…(◞‸◟)

お父さん…

息子に期待したい気持ち、本当によく分かりますが…(-_-;)

親のサポートなくして

オリンピック選手になることは難しいと思いますが

どこまでがサポートで、どこからが強要なのか…

子育てに共通する悩みだな〜と

今、自分が子供を持つ身になって改めて考えてしまいます。

その後、彼は勉強があまり得意ではなかったこともあり

大学には進学しなかったと聞きましたが、

早いうちに別の道を模索出来たことは

彼にとっても良かったのではないでしょうか。

 

中学時代には三姉妹でスキーのアルペン競技をやっている子がいました。

三姉妹の真ん中の子と同級生だったのですが、

この子は、冬は全国大会にも出場するレベルで

夏もカナダに遠征して競技の練習に励んでいました。

なので、春と秋は普通に学校に来ますが、

夏と冬は長期で欠席していました。

彼女は、スキー焼けとトレーニング焼けで

年中真っ黒に日焼けしていたのですが

それをすごく気にしていて、普段は日焼け止めを大量に塗って

日陰しか歩かないなど、少しでも日に焼かない努力をしていました。

そして、「スキーが嫌いだ」といつも言っていました。

スキーのせいで日焼けする、みんなと遊べない、

勉強にもついていけない、姉妹で比べられる…。

でも、とにかくお父さんが怖くてスキーを辞めさせてくれないんだとも…。

彼女は中学卒業後、

札幌でも有名な、スポーツに力を入れている私立高校に

スキーの推薦で進学しました。

高校では授業は午前中だけで、午後はびっしりトレーニングだそうで

スポーツ推薦者はどの部活もそうだと言っていました。

そして、大学もスキーの推薦で東京の大学に進学しました。

オリンピックを目指して三姉妹でスキーアルペン競技を

幼い頃から続けて来た彼女でしたが夢叶わず…

結局、大学卒業とともにスキー競技から引退したそうです。

その後、一度は東京で就職したものの

数年で辞めて札幌に戻って来ました。

32歳頃に再会した時の彼女曰く

「スキーなんて昔から大っ嫌いだった。

もう二度と滑りたくない。

姉妹もみんな父さんが怖くてやらされてたけど

今はもうジジイだから言うこと聞かなくていいんだ。

でも、スキー辞めたら他に何もしてこなかったから

全然やること無いんだよね〜。」と…。

彼女のスキーの腕前は

全国大会に出場するレベルでしたので

北海道内でも相当なものだったと思います。

色々なことを犠牲にして長年頑張ってきて

そこまで上手になってもスキーが大っ嫌いって…

そのくらい辛い年月だったのでしょうね(;_;)

彼女はその後数年間

実家暮らしでアルバイト生活を送っていましたが

今は結婚して主婦業に励んでいる様です。

ちなみに、彼女のお姉さんは

スキーしかしない生き方は嫌だと公立高校に進学して

早々とスキーは引退したそうです。

妹さんは姉妹の中で一番スキーの成績が良く

高校も彼女と同じ私立高校に進学、

大学もスキーの推薦で進学したそうですが、

やはりもう引退していてスキーは嫌いだそうです(ー ー;)

 

オリンピックに行ける人は

本当に本当に一握りです。

その影では、たくさんの選手たちがしのぎを削って努力していますが

夢叶わなかった時にどうするか…

難しい問題ですね( ˘ω˘ )

私なんて、そこまで努力したことも無い人間なので

偉そうなことは何も言えませんが

子供にそこまで強制してでも何かをやらせるという

親御さんの情熱は本当にすごいものだと思います。

一度はスキーが嫌いになって

スキージャンプを辞めた彼も、スキーアルペンを辞めた彼女も、

もっと歳を取ったり、自身が子供を持ったりして

またスキーが懐かしくなる日が来るんじゃないかな…。

そこまでの技術を身につけた努力の経験は

きっと今後の人生でも彼らを支えてくれるはずですから

親御さんの苦労も決して無駄では無かったと思うのですが…。

 

平昌オリンピックに出場した選手達を見ると

本人のものすごい努力と、それをサポートし続けた周りの人達の努力を感じます。

その中で、さらにメダルを獲るまで活躍するということは

本当に奇跡に近いことだと思います。

メダリスト達が口々に

「周りのサポートのおかげです」、

「応援してくれたみなさんのおかげです」というのも

こういった陰の功労者の方々への感謝からなんですね(´-`).。oO

 

平昌オリンピックも残すところあと1週間。

表舞台に立つ人も、そのサポートに奔走する人も、

また、表舞台に立てなかった人達とそのサポートをし続けている人達も

みなさん本当に様々なドラマがあることでしょう。

だからこそ、メダルを獲得した喜びはひとしおで

私の様にテレビの前で観ているだけの者でもσ(^_^;)

感動を分けてもらえるのですね。゚(゚´ω`゚)゚。

 

習い事の続かない私が唯一続けている「水彩画」。そのきっかけと要因とは?

私はかれこれ7年以上、水彩画を習っています。

きっかけは子供の頃に習っていたから…なんですが、

なぜ子供の頃に習いに行ったかというと、

母が、たまたま高校時代の恩師だった美術の先生に

卒業して30年振りに道でばったり会い、

先生から

「今は教師を辞めて、子供に水彩画を教えてるから

良かったら習わせにおいで。」と声をかけられたから、なんですね。

 

その時、私は小学3年生、弟は2年生でした。

私は絵を描くのが大好きだったので

大喜びで習いに行くことにしました。

先生の教室までは電車とバスを乗り継いで

片道1時間半以上はかかっていましたが、

毎週土曜日、母が連れて行ってくれるのが

本当に楽しみでした(๑˃̵ᴗ˂̵)

 

弟は絵が苦手で習うのが苦痛だったそうで、

今でもトラウマらしいですが(^^;)

先生のお家はヨーロッパで買い付けてきたという

素敵な洋食器やフランス人形がたくさん飾ってあり

夢の様に素敵なお家でした。

先生は50代の男の先生で、

全部で10人くらいいた小学生の生徒全員の絵を

丹念に観てまわっては声をかけてくれました。

先生が一筆加えるだけで

絵がパッと変わる魔法の様な瞬間を見るのも大好きでした。

 

しかし、そんな楽しい時間は1年間くらいで終わってしまいました( ; ; )

先生が、フランスに絵を描くために

長期で行くことになり

絵画教師も閉鎖することになったからです。

子供心に絵画教室を辞めるのが非常に残念で

母に頼んで、すぐに近所の別の水彩画教室に通わせてもらったのですが…。

 

ここの先生はガリガリに痩せた40代くらいの女の人で、

ずっとたばこを吸っていて、とても怠惰な雰囲気でした。

教室全体も陰気ですごく嫌なムードが漂っていて、

先生は生徒が描いた絵を自分から観せに行くまで

たばこを吸うばかりで知らん顔。

せっかく描いた絵を観せても冷たく辛辣なダメ出しをして、

習っている子も誰も楽しそうではありませんでした。

「先生は絵が嫌いなのかな…。」とすごくガッカリして、

4回くらい行って辞めてしまいました。

 

その後は絵を習うことも無く大人になり、

普段も描くことも全くありませんでした。

 

それが…

娘が小学5年生の時、

娘が学校の美術の授業で描いてくる絵を観ていて、

本格的に絵を習わせてはどうか?

私も一緒に通ってもいいなと思い、

札幌市内の絵画教室をネットで探し始めたのです。

 

色々見ている中で、

見覚えのある苗字の先生が運営する油絵の絵画教室を見つけました。

しかし、子供の頃に習っていた先生は

すでに亡くなられたと聞いていたし、

息子さんはいたけど、絵はやっていないと聞いていました。

でも、珍しい苗字なので、もしかしたら…。

また、教室の場所もウチから歩いて20分くらいの場所。

思い切って見学に行ってみようか…。

 

さっそく次の日、

ホームページでは休みになっていたにも関わらず、

ダメ元でその絵画教室に電話してみました。

すると、すぐに男の先生が出られて、

「ああ、ホームページの情報を直してなくてごめんなさい。

実は1年前に、今まで休みだった曜日に

水彩画のクラスを作ったんです。

今も授業をやっているところなので、

もし良かったらこれから見学に来ませんか?」

と言われたのです!

すごい偶然!

さっそく、ワクワクしながら見学に伺いました。

 

迎えて下さった先生は

子供の頃に通った水彩画教室の先生に似ていました。

特に、声はそっくり…。

やっぱり、あの先生の息子さんなのでは?

思い切って先生に伺うと、やはり息子さんでした。

こんな偶然ある?と、もうビックリ!

残念ながら、子供は教えていないとのことで

なんと私1人が水彩画教室に通うことになったのです!

娘に絵画教室の話しをすると

「全然行きたくない。」との返事だったので、

かえって無理強いしなくて良かったのかもしれません(^^;

それから7年以上通っていますが、

子供の頃から数々の習い事をした中で

ここまで続いているのは水彩画だけです。

これも、子供の頃に少しでも習っていたおかげだし、

上手い上手くないは別にして、

私は絵を描くのが本当に好きだからなんだと思います。

 

また、先生がお父さん先生と同じで

本当に生徒の感性を大事にしてくれるいい先生なのも

続けられている要因です。

そして、先生の一筆で

魔法の様に絵が変わる様もお父さん先生と同じ!

その時の先生の筆運びや仕草が

「この人は本当に絵が好きなんだな〜」と思わせてくれる仕草で、

これも嬉しい瞬間なのです。

また、生徒さんもみなさん本当にいい方ばかりで、

これも先生の人柄あってのことなのでしょう。

 

無趣味な私の唯一の趣味として、

水彩画はこれからも、まだまだ続けていきたいと思っています(o^^o)

 

↑絵の具はもっぱら「ホルベイン」を愛用しています。

 

生まれつきの重度の蓄膿症が、ある偶然のきっかけであっさり完治した私の体験談。

私は子供の頃、ひどい蓄膿症でした。

物心のついた幼稚園の頃には鼻がいつも詰まっているのが当たり前で、

それが小学校に上がる頃には更に重症化し、

いつも濃度のある黄緑色の鼻水が垂れているのが日常になっていました。

小学2年生の時は、その鼻水が汚いと男の子にいじめられ

泣いて更に鼻水が大量に出て、本当に嫌な思いをしました。

 

小学校近くの耳鼻科に行ったのは小学校1年生の時でした。

学校のプール学習の際に、耳に水が入り中耳炎になったのです。

病院で頭部のレントゲンを撮り、診察してもらいました。

その時お医者さんが言ったのが、

「中耳炎は重度の蓄膿症でプールに入ったことが原因で起きています。

鼻がいつも詰まっていることで口呼吸しか出来ていないのが原因で

口がいつも開いており、前歯も出っ歯になってしまっていますね。

これはかなり重症ですので、ある程度の時期で手術しなければ

治らないと思います。」でした…。

 

子供心に“手術”という言葉がショックでショックで…(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

もう、この鼻水が治ることは無いんだとかなり落ち込みました(TT)

でも、まだ年齢が低いということですぐに手術はせず、

とりあえず2日に1回、鼻に水の出る器具を入れて洗浄する

「鼻洗浄」に通うことになりました。

 

この頃は子供が多い時代で、小学校に近い耳鼻科はいつも

玄関に靴の置き場も無いくらい大混雑していました。

それでも「鼻洗浄」をすると鼻がスッキリして気持ちいいのと、

何とか少しでも良くなってほしい思いから、

真面目に2日に1回の通院を続けました。

重度の蓄膿症だったため、「鼻洗浄」の効果も1時間くらいしか持たず

家に帰ってちょっとすればまた鼻詰まり。

病院でそれ以外の治療は何もしていなかったので、今思えば完全に対処療法で、

これで蓄膿症が良くなるわけでも無かったのですが

当時の私にはそれ以外どうしようも無かったのです。

実はこれと並行して、幼稚園の頃から両親は

私に漢方薬を飲ませたり、おでこにお灸をしたり、鼻にドクダミの葉を詰めたりと

独自の民間療法もかなり試してくれていました。

しかし、どれも全く効果は無く、

小学校のプール学習での中耳炎も何度も何度も繰り返していました( ; ; )

 

母は「大人になったら手術したらいいよ。

口の中から切って手術出来るらしいから、顔に跡も残らないって言うし、

それしかないんじゃない?」と言いました。

口の中から切るって…

嫌だ嫌だ!

しかも、「大人」って何歳?

私、このまま中学生や高校生になっても鼻水が垂れたままで、

またみんなにいじめられるの?

そんな青春嫌だ!

本当に悲しくなりました(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

 

しかし、父は

「鼻水は鼻腔と言って、鼻の上の方の袋状の部分に溜まるんだ。

今、この鼻腔の形が鼻水の溜まりやすい形状になっているだけで、

成長と共に顔の形が変われば鼻腔の形も変わる。

そうしたら鼻水は溜まらなくなって、必ずあんたの蓄膿症は治るはずだ。

お父さんはそう信じてるよ。」

と言ってくれました。

これはその後も折に触れて言ってくれて、本当に心の支えになり、

小学校で男の子にいじめらても

「大人になったら治るもん!だってお父さんがそう言ったんだから

間違いないもん!」と、言い返すことが出来る様になりました。

 

しかし、耳鼻科の先生からは

「ここまで重症なのは珍しいので、多分成長しても

完全に治ることは無いと思いますよ…。」と言われてしまい、

また落ち込むこととなりました。

 

ところが、それほどひどかった私の蓄膿症が

あることがきっかけで小学3年生の夏に、あっさり全快したのです!

そのきっかけとは…。

 

小学3年生の夏に学校で登山遠足があり近所の山に登りました。

そして、その日の夜は疲れていたものの、母と弟と街に出掛けたのです。

しかし、途中から激しい腹痛に襲われ、近くの救急病院に搬送されました。

原因は虫垂炎、いわゆる「盲腸」でした。

そのまま緊急手術となり、1週間入院することになったのです。

 

そこで…

術後に毎日飲んだのが「化膿止め」の薬でした。

この「化膿止め」のおかげで鼻水はピタッと止まり、

生まれて初めて鼻詰まりの無いスッキリ生活が送れたのです!

これはとても嬉しかったのですが、病院の先生に聞くと

「ああ、確かに蓄膿症も膿だから

「化膿止め」の薬で止まったのかもしれないですね。

でも、「化膿止め」はもう退院したら飲まなくていいし、

ずっと飲んでちゃいけないものなんだよ。」と言われ、

「やっぱりな…。退院したらまた鼻詰まりで「鼻洗浄」に通うのか…。」

とガッカリしました。

 

ところが!

これが!

ここから二度と鼻詰まりは発生しなかったのです!

こんな偶然からの荒治療で

生まれつきの重度の蓄膿症が完治!

信じられない様な話しかもしれませんが事実です。

 

これ以降は、風邪を引いて鼻詰まりになる以外は

全く蓄膿症では無くなりました。

 

ただ、35歳くらいの頃、風邪から鼻詰まりがひどくなり、

例の濃度のある黄緑色の鼻水が大量に出る様になったことがありました。

頭も重く、これは嫌な予感…。

近所の内科にかかるとお医者さんから

「あなた、昔、蓄膿症じゃなかったですか?

こういったことがきっかけで再発することは結構あります。

多分、ここまでひどいと再発ですね。」と言われ大ショック!!

「じゃあ、風邪が治っても昔みたいに毎日鼻詰まりになるんですか?」

と聞くと、

「再発なんで、そうですね。」と言われ、大人なのに泣く寸前でした…。

こんなことでまたあの苦しい日々が始まるなんて!

もう、顔の形も変わって膿が溜まりずらい鼻腔になってるはずだし!

諦め切れず、別の耳鼻科へ行くと

「膿がかなり溜まってるので、「化膿止め」出しますね。

すぐに良くなりますよ。」とあっさり言われました。

「あの…私、子供の頃重度の蓄膿症だったんです…。

別の内科で蓄膿症の再発だと言われたんですが…。」と言うと

「え?あり得ないですよ。大丈夫、大丈夫。すぐ良くなりますから。」

とのお返事…。

さっそく帰って「化膿止め」を飲むと、

小学3年生の時と同じ、すぐに鼻水は止まってスッキリしました。

そして、ほんの2日程で治ってしまい、再発もしませんでした。

 

良かった〜( ;∀;)( ;∀;)

てか、あの内科の先生、何だったの?o(`ω´ )o

軽く言ってくれたけど、重度の蓄膿症の苦しみ分かって言ってんの?

いっつも鼻詰まりで苦しくて、物の匂いも味も分からなくて、

運動も苦しいからあんまり出来なくて、すぐ中耳炎になってしまう。

何もしてないのに黄緑色の鼻水が常時垂れてくるから、

見た目も最悪で、日常生活を普通に送ること自体

相当困難なものだというのに…。

 

もし、あの時「盲腸」になっていなかったら、

私は今でも重度の蓄膿症に苦しんでいたか、手術をしていたのかもしれません。

父の言葉の支えと、偶然の「盲腸」には、今でも感謝しています。

 

 

大量の漬け物作業をやりたがる77歳母、ついに引退!か?

今年で77歳の母は、今の時期、毎年大量に漬け物を漬けたがります。

漬け物が大好きというよりは、激しい義務感で漬け続けてきた様に思います。

 

かつて実家では飲食店を営んでおり、そこで北海道の漬け物「にしん漬け」を出していました。

この頃は四斗樽という大きな木の樽4個に「にしん漬け」、

自宅用に三斗樽1個にタクアンを漬けていました。

 

 

私が小学生の頃は、10月半ば過ぎになると

土付きの大根150本を庭の水道で洗う作業に弟と共に駆り出されました。

父は基本的に何もしない人だったので

母と、小学3年生と4年生の2人という、今では信じられないメンバーでの大作業でした。

当時の北海道の10月半ば過ぎは今より寒く、もう雪がちらついていて

かじかむ手で大根を洗ってムシロの上に並べました。

洗った大根は一本一本ピーラーで皮をむいて、荒縄で物干し竿に吊るして2週間くらい干します。

大根の干し上がる11月初旬に「にしん漬け」を漬けるのですが、これが重労働でした。

メンバーはまたもや母と小学生2人。

さすがにこの日は父も多少は手伝いましたが、

中座ばかりしてほとんど何もしていなかったと記憶しています。

タクアン用に30本の大根を残し、120本の大根は「にしん漬け」用に乱切りします。

巨大なキャベツは3球ざく切り、人参、生姜は千切りします。

極め付けが「みがきにしん」のウロコ取りとカットです。

朝から夕方いっぱいまでほとんど休憩無しで漬けるこの「にしん漬け」作業は

途中でにしんを「みがきにしん」から

真空パックされている「糠にしん」に変えたことで

パッケージ開けと糠洗いと

にしんの三枚おろしという手間が加わってさらにパワーアップしましたが

おかげさまでお客様には大変好評でありました。

 

そんな飲食店も今から16年前に閉店しました。

私ももう娘が産まれた28歳。

小学生の頃から強要されてきた漬け物作業からやっと解放されたと思っていたら

母から「今年は店もやめたから三斗樽3個とタクアンだけにしたよ。」と言われました…。

え?

お客さんに出すわけでもないのに、何でそんなに大量に漬ける?

「漬け物はたくさん漬けないと美味しく漬からないからさ。」

いやいやいや、誰が漬けるんだって話し。

すでに60歳を過ぎた母と70歳を過ぎた父。

弟は仕事であてになりません。

当然の様に、また私が強要されての漬け物人生第2章の幕開けでした(~_~;)

 

それから14年間、少しずつ量を減らして、最終的には「にしん漬け」三斗樽1個になり、

土付き大根を干す作業もやめて、最初から干してある大根を使う様に簡略化してきました。

樽は水分を吸って重くなって大変だった木製から

プラスチックタイプに変更し

重石も不揃いの庭石を組み合わせて使うのはやめて

安定するポリエチレン製のものに変えました。

 

…が、父は亡くなり、母は75歳。

漬け物を漬け終わったあとの母の毎年のセリフ「あ〜やっと今年も大仕事終わったよ。」と

「結局自分ではほとんど食べないで人にやってるんだわ。」にいい加減キレました。

私も、「にしん漬け」は美味しいけど毎日なんか食べないので

散々漬けさせられても、ほとんど食べてはいませんでした。

それが母まで!?

ホンット何やってんのさ!

「だってみんな美味しいから頂戴って言うんだもん。図々しい人なら年に3回も取りに来るよ。」

…自分がメインで漬けれるんならナンボでもやればいいけど

私がいなかったら漬け物の買い物さえ行けなくなってるのに…

もう「にしん漬け」漬けなくていいって!( *`ω´)

こうして、やっと長かった「にしん漬け」人生から解放されましたが

タクアンは残りました…(ー ー;)

「タクアンなら楽だもの。」って…

だから、誰が漬けるんだって!

結局大根30本も漬けて、ほとんど人に配っていました。

母の悪い癖は、大して漬け物を欲しがっていない人にも

いかにも余って困ってる風を装って大量に押し付けるところです。

影で人をコキ使ってやっとの思いで漬けてるっていうのに…。

弟でさえ、無理矢理母に押し付けられる漬け物にヘキエキしていて

裏事情を知って驚いていました。

 

今年もタクアンを30本漬けました。

でも、もうこれも今年で終わりです。

パーキンソン病と脊柱管狭窄症で、体も手の動きも不自由になってきた母が

人に配るために何だってこんなに大量に漬け物を漬けなければならないのでしょうか。

私も小学生の頃から34年間、よくやってきたと思います。

 

母は北海道の田舎の大家族出身なのですが、

田舎ではいかに美味しい漬け物を漬けるかがステイタスだった様で

札幌に出てきて、この歳になってもやめることができなかったのでしょうか。

でも、母の姉妹達は誰も漬け物を漬けておらず、毎年、母にもらいに来ていました。

母はお店をやっていたので必要に迫られていたのと、

生真面目で自分に厳し過ぎる人なので

誰かが何の気なしに「今年も漬け物楽しみにしてるよ。」なんて言おうものなら

「今年も漬け物漬けなきゃ怠け者だと思われる!」と受け止めてしまい、

でも1人では到底無理なので、影で私をコキ使って漬けて

人には自分だけで漬けて、余ってしょうがない様な顔をしてしまう…。

なんだ、ソレ?!

私にはそんな性分はからきし無いので意味不明ですが、母は気の毒な性格だと思います。

 

「もうタクアンも今年でやめよう。」のセリフに母は非常に残念そうではありましたが

日常の生活もままならなくなってきているんだから仕方ありません。

「漬け物」はあくまで余興で漬けるんであって

まずは日常の買い物とご飯支度をかなり補助しなければならないのです。

 

…ていうか、1回やめたら二度と復活出来ないとか、意地でも絶対に毎年漬け続けるとか

母が一体何に対してこんなにムキになってるのか意味不明です(^_^;)

今年はやめとこうか〜的なユルさが全く無い母なので

逆にユルユルだった父にいつも怒ってばかりいたっけ。

しかし、残念。

私の性格は完全に父親似なので( ✌︎’ω’)✌︎

母の気持ちが全く理解出来ず、母の要望に答えきれませんσ(^_^;)

 

「もう、アンタ1人で漬けられるだろうさ。」と

何度も私に漬け物文化を継承したがっておりましたが

マンション住まいの家では漬け物の保管スペースもありませんし

そもそも漬け物、そんなに食べないし…。

てか、長年強要され続けてきたせいで、もう漬け物作業自体トラウマだし…。

やっとやっと解放された漬け物作業。

いつか懐かしく思う日が来るのでしょうか?

来年は本当に漬けなくて済みますように〜(>_<)